アメリカ、フラグスタフの海軍天文台を基点として、1950年頃から1960年代の半ばにかけて、彗星の位置観測や検出に大活躍した女流天文家である。この間、10年余にわたって検出した周期彗星の数は悠に60を超える。正に彼女の独り舞台であった。
 新彗星の位置観測にも抜群の正確さを誇った。今のCCDの時代と違って、感度の低い写真観測であったが、パソコンもなく、後年キットピークの天文台に移ってからは、当時としては驚異的な22等まで撮影した。露出時間は何と最長2時間という記録がある。その間ジッとして、ファインダーの中の案内星を見つめ、彗星が固有運動で移動していく方向に筒を動かして追尾する。無論彗星はファインダーでは見えない。
 私にもその経験があるのでよく分かるが、たとえ気温が氷点下になっても暖を取るわけにはいかず自分との長い闘いが続く。OAAの長谷川一郎氏によると、一生独身で観測に従事し軌道計算者のために貢献した。性格も非常に勝ち気で、自己にも厳しかった。大学時代にテストで、隣の男の学生がカンニングしているのを発見し廊下に引きずり出したと言うエピソードが残っているという。

 彼女の業績の中で、最も目を引くのは1879年以来90年近くも行方不明になっていた
テンペル第Ⅰ彗星を、約90年ぶりに再発見したことである。これには計算者の協力も欠かせなかったが、彼女の技術の高さと、絶大なる努力がかみ合って成功したものである。
 星の位置観測をしてもすぐには発表せず数日置いてもう一度チェックして確かめた。そんなわけで発表は遅かったが絶対にポカミスが無く、カニンガム氏やマースデン氏らの信頼を得ていた。稀に残差が合わなくて、長谷川氏が再測定を依頼したら「そちらの計算ミスでは無いか!?」と抗議してきたという。彼女の作業には満々たる自信があったのだ。

 1961〜2年になって、私が新彗星を発見した時、大口径ならではの立派な写真を送ってく
れた。しかし1965年の”池谷・関彗星”の時には第1線から引退されていて彼女からの写真に接することは無かった。彼女は珍しいクロイツ属のこの彗星を、どんな目で、そしてどんな心で捉えただろうと思って興味がわく。
 長谷川一郎氏は会社の仕事の関係で、時々渡米してリーマーさんに会った。あるとき、「関は普段どんな仕事をやっていますか?」と聞いたので「ギターを演奏したり、教えたりしています」と応えたら、「私はアンドレス・セゴビアのギター演奏がとても好きで、時々彼の演奏会に行きます」と答えたという。ニュヨーク在住のセゴビアは、そのころアメリカ各地で演奏会を開いていた。長谷川氏と会話していた時、喫茶店の中では騒がしいジャズ音楽が流れていたが、私のギター音楽をクラシックと受け止めてくれたのはうれしかった。そう!あの有名なガリレオの父ビンセント・ガリレイも古代楽器リュート(ギターの前身)の優れた奏者であった。
 先に紹介したアメリカのマースデン博士も駆け出しの頃はリーマーさんの助手であった。「彼が私の天文台にやって来た時には、星の事は何も知らなかったわ」と長谷川さんに話していたそうであるが、彼女は惜しい事に今から数年前に逝去された。

(写真はアメリカ海軍天文台時代のE・リーマーさん。長谷川氏撮影)
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