1945年8月15日に戦争が終結し、その約1ヶ月後に高知市の自宅に帰りました。しばらくの間は空襲を受けた家の片づけに追われました。敗戦後は大変な食糧難の日が続きましたが、農家の出身の父は工場の広い焼け跡に野菜を栽培し餓えをしのぎました。
学徒動員の為、暫く休んでいた学校の授業もようやく復活し、スポーツも始まりました。学校の多くは芋畑になっていた校庭を慣らし、野球やテニス、水泳などの競技が盛んとなってきました。
私はその頃、軟式テニスをやっていましたが、中学1~2年の軍事教練や勤労奉仕などによって鍛えられた体力が、その後の過激な労働に耐えられる体を作ったのではないか?と独り思ったりします。無駄な空白の時代だった、と思っていましたが戦時中は乗り物に乗らずに、どんな距離でも歩きました。それが今日までの半世紀以上、天体観測に耐えられた原動力であったかもしれません。
その頃のラジオ歌謡にこんな歌がありました。
♪歩け 歩け あーるけ歩け
東へ西へあーるけ歩け 歩け
道なき道を あーるけ 歩け あるけ ♫
戦時下を象徴するような力強いリズムに乗ったこの名旋律は、瞬く間に全国を風靡しました。
(写真は戦時中、高知市内を走っていた”ちんちん電車”)


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学徒動員の為、暫く休んでいた学校の授業もようやく復活し、スポーツも始まりました。学校の多くは芋畑になっていた校庭を慣らし、野球やテニス、水泳などの競技が盛んとなってきました。
私はその頃、軟式テニスをやっていましたが、中学1~2年の軍事教練や勤労奉仕などによって鍛えられた体力が、その後の過激な労働に耐えられる体を作ったのではないか?と独り思ったりします。無駄な空白の時代だった、と思っていましたが戦時中は乗り物に乗らずに、どんな距離でも歩きました。それが今日までの半世紀以上、天体観測に耐えられた原動力であったかもしれません。
その頃のラジオ歌謡にこんな歌がありました。
♪歩け 歩け あーるけ歩け
東へ西へあーるけ歩け 歩け
道なき道を あーるけ 歩け あるけ ♫
戦時下を象徴するような力強いリズムに乗ったこの名旋律は、瞬く間に全国を風靡しました。
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