オーストラリアのアデレイド近郊のブラッドフィールド氏は、老練の優れた彗星の捜索者だった。1992年に第一号の彗星(C/1972 E1)を発見した時には40歳を過ぎていた。これについてOAAの長谷川氏は、「若い人ならすぐ辞める人もいるが、ある程度年を重ねているから怖い」と言っていた。正にその通りで、日本の強力なライバルになり、手薄だった南半球の彗星を発見しまくった。晴れていれば、毎日のように自宅から100キロも離れた砂漠の中の観測所に通ったというから大変な努力家であった。

 その彼が日本にやってきたのは1990年頃であったと思う。日本各地を旅し、主な彗星の観
測者と会った。無論芸西の天文台にも来た。しかし肝心の倉敷には行かなかった。何と言っても彼にとって、本田さんは大の憧れの人であった筈だ。しかし本田さんは彼と会う事を拒否された。その理由はよく分からないが、本田さんが良く言われていたように単なる人嫌いか。いや、私にはマスコミが多分に影響していた様に思う。本田さんが、まじめに努力されていたことが、マスコミによって必ずしも正しく伝わっていなかったからだ。彗星観測も学術であって、面白おかしい記事とは訳が違う。その様な例はほかにもたくさんあった様に思う。

 日本での新天体の発見は当時の東京天文台がとりもっていた。いったん東京に報告、確認してア
メリカのセンターに送られた。オ—ストラリアでは事情が違うのか、彼の発見は直接スミソニアンのマースデン博士に電話していたそうである。彼のコメットシーカーは日本製の5インチの屈折であったように思う。とにかく手持ちの機械をフルに活用することである。あれやこれや機械をリグル(方言で吟味するの意)人で、実際に発見した例は少ない。

(写真は芸西天文台でのブラッドフイールド氏と関)

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