天体観測用の反射鏡を磨くことは、遠く戦前からの日本の伝統であった。大正年代には京都の中村要氏やアメリカに留学して天文学を学んだ高知県出身の山崎正光氏らがその先覚者であった。戦後、九州の星野次郎氏や愛知県の小嶋信久氏らを中心に沢山の人が後を追った。
反射鏡は屈折望遠鏡のレンズと違って1面のみ研磨すればよいので、ガラス材料は抜群に安かった。しかし鏡面は幾何学的な回転放物面に磨く必要があって、機械研磨はまず不可能でそれぞれの技術者が、その深い経験に頼って鏡を仕上げた。私も10cmの鏡を磨いたことがある。
1965年の「池谷・関彗星」発見後に知り合った愛知県の小嶋信久さんとは、彗星の観測で互いに協力した。いつも”午後9時半”の電話で、その日の観測の結果を話し合った。小嶋さんからは口径22cmの反射鏡の寄贈を受けていた。鏡筒と架台は自作し、上町の自宅の中庭を観測の場所としていた。
そのころ二人が入会していた⦅日本天文研究会⦆の神田茂氏から、とおく1926年以来行方不明になっていた25Dネウイミン第2彗星(周期5.4年)の捜索予報が出た。ふたりで話し合って捜索することになった。行方不明からすでに45年の歳月が経っていた。
捜索は予報のセンターから東(⊿Tはマイナス側)を小島さんが受けもった。逆に、プラス側を私が担当して探した。ところが探し始めて間もなくの1970年10月、東のバリエーション上に14等級のそれらしい彗星像がある、との情報が小島さんからもたらされた。早速私も観測して、当時の東京天文台に報告した。富田弘一郎氏から「ネウイミン彗星に間違いない」との返信がすぐにあったが、事実は意外であった。詳しい計算によると全く別の新彗星で、ネウイミン第2彗星は消えてコジマ彗星が残った。なんだか後味の悪い結末であったが、事実はそのとおりで、今でも昔のネウイミン第2彗星は消えたままである。これら二つの彗星の軌道要素は、離心率を除いて酷似していたのである。果たして、偶然の一致であろうか?
小島さんの写真的彗星発見は、多くのアマチュアに自信と勇気を与え、その後多くの新彗星が日本で写真的に発見されることになる。芸西の登場はそれから更に10年待たなくてはならない。
(写真は自宅の工作室で、芸西用の40センチ反射鏡を磨く小嶋信久さん)
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反射鏡は屈折望遠鏡のレンズと違って1面のみ研磨すればよいので、ガラス材料は抜群に安かった。しかし鏡面は幾何学的な回転放物面に磨く必要があって、機械研磨はまず不可能でそれぞれの技術者が、その深い経験に頼って鏡を仕上げた。私も10cmの鏡を磨いたことがある。
1965年の「池谷・関彗星」発見後に知り合った愛知県の小嶋信久さんとは、彗星の観測で互いに協力した。いつも”午後9時半”の電話で、その日の観測の結果を話し合った。小嶋さんからは口径22cmの反射鏡の寄贈を受けていた。鏡筒と架台は自作し、上町の自宅の中庭を観測の場所としていた。
そのころ二人が入会していた⦅日本天文研究会⦆の神田茂氏から、とおく1926年以来行方不明になっていた25Dネウイミン第2彗星(周期5.4年)の捜索予報が出た。ふたりで話し合って捜索することになった。行方不明からすでに45年の歳月が経っていた。
捜索は予報のセンターから東(⊿Tはマイナス側)を小島さんが受けもった。逆に、プラス側を私が担当して探した。ところが探し始めて間もなくの1970年10月、東のバリエーション上に14等級のそれらしい彗星像がある、との情報が小島さんからもたらされた。早速私も観測して、当時の東京天文台に報告した。富田弘一郎氏から「ネウイミン彗星に間違いない」との返信がすぐにあったが、事実は意外であった。詳しい計算によると全く別の新彗星で、ネウイミン第2彗星は消えてコジマ彗星が残った。なんだか後味の悪い結末であったが、事実はそのとおりで、今でも昔のネウイミン第2彗星は消えたままである。これら二つの彗星の軌道要素は、離心率を除いて酷似していたのである。果たして、偶然の一致であろうか?
小島さんの写真的彗星発見は、多くのアマチュアに自信と勇気を与え、その後多くの新彗星が日本で写真的に発見されることになる。芸西の登場はそれから更に10年待たなくてはならない。
(写真は自宅の工作室で、芸西用の40センチ反射鏡を磨く小嶋信久さん)
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