この場所はかつて戦火に遭って消失した製紙工場の跡である。残った用水タンクを改造し彗星捜索台に使っていた。高さは3m。中には自作の口径10cmの反射望遠鏡が収まっていた。1950年8月12日を皮切りに、晴れておれば、毎日のように捜索に没頭した。しかし発見の成果は、なかなか挙がらなった。
 若き日々、考えることは、いかにして早く彗星を発見するか、であった。尋ねる友人もなく、独り孤独の中に星ばかりを見つめて人生を送った。

 このころの日本の発見は本田實さんが独走していた。外国ではチエコ・スロバ
キアの「スカルナテ・プレソ天文台」の数名の台員が成果をあげていた。なかでも、アントン・ムルコスの発見は多く、私は彼の事を「彗星を呼ぶムルコス」と語っていた。
 
 しかし、この時代の星空は、高知市街と言えども素晴らしく、わずか10cmで巨大な反射望遠鏡で眺めるがごとくの星団や星雲を見た。そして彗星の捜索こそが、全天に散らばる美しい天体を発見する最良の方法であることを知った。星図には有名天体しか紹介されていないが、無名の星団星雲に凄いものもある。捜索は、そうした隠れた天体の発見にもつながったのである。たとえ、彗星の発見は遠くとも、十分な満足感を持って、捜索に従事したのである。
 
 彗星の捜索鏡は、その後間もなく口径15cmの反射鏡に変わった。そして1956年10月、周期26年の「クロムメリン彗星」の発見に成功したのである。そして、実際の新彗星の発見は、観測所が自宅の中庭に移ってからの、1961年10月に行われるのである。この時、発見のコメットシーカーは小さな口径9cmの屈折鏡に変わっていた。その動機については、またお話する機会もあると思う。

 (写真は捜索に苦闘し、迷っていた時代の姿である。)
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