終戦の年も近くなった昭和19年頃の製紙工場は、戦時一色に塗り固められていた。空襲のための防火訓練はしょっちゅう行われていたが、工場の食堂には「一億一心火の玉だ」とか「壁に耳あり」とかの戦意を煽り、スパイに用心するポスターが貼られていた。

 それは昭和19年の夏祭りの賑やかな日だった。工場長の父と二人で、近くの氏神様に
お参りに行った。帰ると家に入る間もなく、父は自宅前の工場の点検にはいった。それは毎日の日課だった。
 この時父は「おやっ?」と小さな声を発した。(鍵がかかっていない?)忙しい操業を終えた広い工場内は森閑としていた。しかし入口の鍵がかからずに開いたままだった。
 懐中電灯の幽かな光で、あちこちを点検した父は急に、「つとむ、時計の音がしないか?」とつぶやいた。くらい工場の中は森閑として「ブイーン」と言う、かすかな変圧器の音が余計に広い工場内の静寂を保っているように感じた。
 「時計の音は何も聞こえないよ」と言うと父は「いや、確かに時計の音がする、こちらだ」と言って暗い工場の機械室に入っていった。すると、やがて「これはなんだ!?」と突然大きい声で叫んだ。
 懐中電灯に映し出された丸い明かりの中には、普段見慣れないグリーン色の小さなボックスが置かれていた。「カッチ カッチ」と言う、不気味な時計の音は、この小さな箱の中から響いているらしかった。「危ない、散れ!」と突然叫んだ父は、その箱を壊し、中の銅線の様なものを引きちぎった。そして、何にも言わずに丸い大きな目で、じっと私の顔を見つめていた。

 恐ろしい事件だった。何者かが時限発火装置を仕掛けて、工場の焼失を狙ったのだ。大戦の終わりごろには沢山のスパイが日本にいることは知っていた。しかし小さな町工場まで、アメリカ側のスパイに狙われようとは、だれも想像していなかった。それほどに”風船爆弾”という奇想天外な兵器は、敵側に恐れられていたのである。

 その事件のあった翌日から「タナベ」と言う、大阪から出稼ぎに来ていた目の「ギョロ」とした男がいなくなった。父は、この人物を時限爆弾を仕掛けた犯人と見ていたが、それから20年も経った平和な時代に、私は妙な場所で、この男と出会うことになるのである。

(写真は風船爆弾用の和紙を満載して、大八くるまで駅まで運んだ上町の自宅前)

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