第2次大戦の末期、恐るべき発想の新兵器であったが、実際にはそれほどの戦果は無かった。戦時中の新聞の報道では、アメリカ大陸で、原因不明の山火事があちこちで起こったことが報じられていた。日本の天文関係者でも、これに携わった人が多く、関東地方のある天文同好会の会長は横須賀の陸軍技術研究所の将校で、開発に協力した。また東京天文台の富田弘一郎氏は大学生の時アルバイトで、風船爆弾に詰める水素ガスのボンベを、東京から東北の基地まで電車で運んだことを話してくれた。
 
 和紙を製造していた関製紙工場は、戦災の後、操業は中止した。工場の跡地には食料難故に農園ができ、またその畑の一角に天体観測の小屋が出来たのである。私の彗星観測の施設は、お粗末ながら、終戦直後から始まったと言える。そして観測とほぼ同時に始まったのが、クラシックギター演奏の世界であった。
 1961年に初めて第1号の「関彗星」を発見した頃、NHKからギターでの出演の声がかかり、松山放送局から全国中継することになった。曲目は、ビンセント・ガリレイ(有名なガリレオの父)の作曲した「サルターレロ舞曲」であった。彼はギターと同系統の古代楽器「リュート」の名奏者であった。

 放送が無事終わって夕闇の外に出た。近くのバス停に向かって歩いていると、ギターを持った私を見て観光客らしい一人の男が声をかけてきた。「もしや関のお坊ちゃんではありませんか?」と。私は驚いた。「お坊ちゃん」なんて言う人は、私がまだ幼少のころ、父の製紙工場に努めていた従業員に限られている。私はその人の顔を見るなり「アッ」と驚いた。夢か、まぼろしか。そこには実に意外な人物が立っていたのである。

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