いくつかの彗星を発見してきた高知市上町の星空も、1970年頃を境として公害(光の害)のために見にくくなった。もともと人口18万ほどの小都市であったが、戦後は急速に人口が増え、かつ高いビルも多くなって天体発見には不向きとなった。1970年頃、芸西村の岡村村長の好意で観測所を疎開する事となった。移転当初は、観測困難とされる真夜中の対日照もありありと見えた。小さなコメットシーカーで観測していても、宇宙の果てに目が届きそうな凄い星空であった。
1980年には高知県出身の五藤斉三氏から、口径60cmの反射望遠鏡の寄贈を受けて、新天体の発見は盛り上がった。これを機に高知県は私の施設の隣に「芸西天文学習館」を建てて、広く県下の子供たちのための天文学の学習を行うようになった。同時に私の小屋には口径40cmの反射望遠鏡を入れて周期彗星の検出等に活躍した。
小屋の向こうに見えるのは芸西村の平野で、遠くに手結山が見えている。左は太平洋。この山のはるか向こう「約30km」に高知市があって、私はそこから毎回通っていた。自転車で通ったこともあったが、さすがに遠かった。
夜一人でギターを弾いていると、遅く明月が昇って来て部屋を相照らす。曲目はソルの練習曲「月光」にターレガの「アラビア風狂想曲」。ギターの音色は深夜の200mほど離れた下界の農家に伝わっていたという。ギターが止むと、得体の知れない動物たちの呻き声が谷から聞こえてくる。こうして夜明けが近くなると、コメット・シーカーの筒は東の空に向けられる。いつものパターンである。
(写真は1970年頃の芸西観測所。372)


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1980年には高知県出身の五藤斉三氏から、口径60cmの反射望遠鏡の寄贈を受けて、新天体の発見は盛り上がった。これを機に高知県は私の施設の隣に「芸西天文学習館」を建てて、広く県下の子供たちのための天文学の学習を行うようになった。同時に私の小屋には口径40cmの反射望遠鏡を入れて周期彗星の検出等に活躍した。
小屋の向こうに見えるのは芸西村の平野で、遠くに手結山が見えている。左は太平洋。この山のはるか向こう「約30km」に高知市があって、私はそこから毎回通っていた。自転車で通ったこともあったが、さすがに遠かった。
夜一人でギターを弾いていると、遅く明月が昇って来て部屋を相照らす。曲目はソルの練習曲「月光」にターレガの「アラビア風狂想曲」。ギターの音色は深夜の200mほど離れた下界の農家に伝わっていたという。ギターが止むと、得体の知れない動物たちの呻き声が谷から聞こえてくる。こうして夜明けが近くなると、コメット・シーカーの筒は東の空に向けられる。いつものパターンである。
(写真は1970年頃の芸西観測所。372)


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