岡林−本田彗星(1941 s1)が発見されたのは、今から遠く1940年の10月4日(UT)のことであった。当時倉敷天文台にいた岡林滋樹氏と鳥取県の八頭郡の自宅で農業を営んでいた本田実とがそれぞれ独立して発見した。場所は明け方の獅子座の大鎌の中で、光度は8等級であった。

 岡林氏の望遠鏡はイギリス製の3インチ屈折鏡で、本田氏は自作の10cm反射望遠鏡であった
という。本田氏の10cm鏡はしばらく行方不明になっていたが、本田氏没後、私が倉敷天文台の倉庫の中で発見した。鏡の裏には「坂本」の刻印があった。この鏡は1940年の9月、地球に大接近したと思われる謎の光体(彗星?)を発見した鏡でもあった。本田氏によると、鏡のピントは絶好であったという。また10cmの反射鏡筒の方は、本田氏の生まれた鳥取県の農家の納屋で発見された。

 太平洋戦争勃発前夜ともいえる1940年の高知の町は小さく、しかも灯火管制が敷かれていたので、夜空は
真っ黒で、星ばかりの燦然と輝く世界であった。その頃小学低学年だった私は、本田さんらが彗星を発見した10月初め、近くに火事があって起きていた。火は見えなかったが、その時、頭上に輝く燦然たる星影をみた。小さな流星が常にチカチカと光っていたが、人口18万の高知市を完全に包み込むようなもの凄い星の世界だった。こんな光害のない星空で観測していた戦前の人たちは幸せだったと思う。たとえ”発見”と言う収穫が無くとも、この大宇宙に浸ることに大いに満足できたのである。

 発見は、岡林さんの方が3日ほど早かった。しかし彗星の移動が確認できなくて、雨天の中で待っ
ているとき、本田さんからの発見の通報が来たので、東京天文台に打電した。こうして日本人二人による珍しい連名の彗星が誕生したのである。
 この二人の天文家を育てたのは京都大学の山本一清博士であった。博士はある財閥を説いて大正年代に『倉敷天文台』を設立し、口径30cmの反射望遠鏡を主力機として、天文の普及活動を開始した。岡林氏は大戦中に不幸にして戦死したが、その後を本田氏が受け継いで民間天文台としての役目を立派に果たしてきたのである。

 添付した写真は1941年、出征前の天文台での記念写真である。中央に山本博士。向かって右に本田氏。
岡林氏の写真は、これ1枚しかご家族にもないという。
 山本博士は、特にアマチュア天文家を育成した珍しい天文学者として、今年の7月にNHKの「コズミックフロント」で放映された。結果は大好評で、今年の10月12日と13日にもBS4k等で再放送されることになっている。

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