毎年星の美しくなる10月が訪れると、初めて発見した彗星の事を思い起こす。当初は発見出来ないのがあたりまえだった。そしてマンネリになっていた。ちいさな、コメットシーカーに目を当て、何も発見出来ない空を見るのが日課になっていた。捜索の延長時間は優に1,000時間を超えていた。何も発見できない空を、無念無想の精神でじっと見るのが一つの修行だった。
そんなことで、1961年の10月11日、午前5時、新彗星が現れても心は動じなかった。
「シシザニスイセイミユ」の電報は数字ばかりの暗号で倉敷にとんだ。倉敷天文台では、本田実氏が写真に撮った。続いて、その翌日も撮影したが、彗星が全く移動していないことに驚いたという。太陽系の果てからやって来た彗星は地球に向かってましぐらに飛んでいたのである。
このころ、倉敷の本田さんは東京天文台から借りた、口径3インチのアストロカメラで撮影していた。手札型のガラス乾板も、天文台から支給を受けていた。そんな関係で、撮影したものはすべて東京天文台に送っていたが、1回も測定されることは無かったという。
Comet Seki(1961 T1)は、三鷹でも、また完成したばかりの岡山天体物理観測所でも観測された。またアメリカではフルグスタフの海軍天文台で、E.リーマー女史が見事な尾を曳く姿を撮影して送ってくれた。ロイッシュナー天文台の、カニンガム博士の軌道計算では、周期は770年という事であった。
新彗星の発見は最初が困難である。しかし、一回発見すると自信が出来て、今までの観測を踏襲して続けることが出来る。もし、発見者になれなかったら、いままでとはまた別の人生を歩んでいただろうと、ふと、運命の奇遇を想うのである。
(写真は倉敷天文台撮影の初めてのカラーによる彗星写真。)


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そんなことで、1961年の10月11日、午前5時、新彗星が現れても心は動じなかった。
「シシザニスイセイミユ」の電報は数字ばかりの暗号で倉敷にとんだ。倉敷天文台では、本田実氏が写真に撮った。続いて、その翌日も撮影したが、彗星が全く移動していないことに驚いたという。太陽系の果てからやって来た彗星は地球に向かってましぐらに飛んでいたのである。
このころ、倉敷の本田さんは東京天文台から借りた、口径3インチのアストロカメラで撮影していた。手札型のガラス乾板も、天文台から支給を受けていた。そんな関係で、撮影したものはすべて東京天文台に送っていたが、1回も測定されることは無かったという。
Comet Seki(1961 T1)は、三鷹でも、また完成したばかりの岡山天体物理観測所でも観測された。またアメリカではフルグスタフの海軍天文台で、E.リーマー女史が見事な尾を曳く姿を撮影して送ってくれた。ロイッシュナー天文台の、カニンガム博士の軌道計算では、周期は770年という事であった。
新彗星の発見は最初が困難である。しかし、一回発見すると自信が出来て、今までの観測を踏襲して続けることが出来る。もし、発見者になれなかったら、いままでとはまた別の人生を歩んでいただろうと、ふと、運命の奇遇を想うのである。
(写真は倉敷天文台撮影の初めてのカラーによる彗星写真。)


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