このシリーズもいよいよ最後が登場した。世界1の名捜索鏡である。
それは戦前から、東京三鷹の「東京天文台」に置かれていた謎の彗星捜索鏡である。添付した図を見ても分かる通り、人間が椅子に座ったまま、ほとんど動かずにハンドル一つで全天を捜索できる。便利で強力な機械である。レンズの口径は20cm。F7で、倍率はおよそ27xから170xまでレボルバーで自由に変換できる。 18〜19世紀のアメリカや、ヨーロッパで彗星の発見が盛んだったころのツァイスの製品だと思うが、一体こんなものを誰がどのような動機で東京天文台に持ち込んだものであろうか?これは永遠の謎である。
もともと外国でも国内でも彗星の眼視捜索は殆んどアマチュアの行う仕事であった。まして格の高い国立の天文台のすることではない。しかしメインの大屈折鏡の大ドームの外に、このコメットシーカーも立派なドームが設けられていた。
このことについて、同じ東京大学出身で京都大学の花山天文台にいた百済教猷教授は大いなる疑問を抱き、「これは恐らくメインの屈折赤道儀を購入した際に、一緒におまけとして買わされたものであろう」と言う面白い発言を東亜天文学会での講演会の際にした。
しかし、それには発見者がいた。東京天文台の下保茂技官である。即ち1936年7月の Kaho -Kozik-Lis彗星( 1936 O1)である。1962年5月、東京ひばりが丘の下保氏のお宅を訪ね、発見の様子をつぶさに聞くことが出来た。20cmは3枚玉(トリプレット)で出来ていたが、1966年頃私が堂平天文台で実際に覗いたところ、それほど立派なピントとは思わなかった。
1950年頃2代目のコメットシーカーとして、私は口径12cmの屈折鏡F5を暫く使用して、数々の彗星を独立に観測して貢献した時代があった。この時使用した12cmの屈折鏡の方が二枚玉であるが、もっとピントが良いように思えた。これと同じものを倉敷の本田氏や、花山の三谷氏も捜索に使用した。実物が今、香川県の「望遠鏡博物館」に飾られている。一方、私の「関望遠鏡」は今、福島県の大野氏の天文台のメインの望遠鏡のファインダーとして取り付けられ活躍している。望遠鏡には長い重い過去がある。手柄がある。そのうちきっと新彗星を呼び込むことであろう。
旧東京天文台のツァイス製20cmコメットシーカー


にほんブログ村
それは戦前から、東京三鷹の「東京天文台」に置かれていた謎の彗星捜索鏡である。添付した図を見ても分かる通り、人間が椅子に座ったまま、ほとんど動かずにハンドル一つで全天を捜索できる。便利で強力な機械である。レンズの口径は20cm。F7で、倍率はおよそ27xから170xまでレボルバーで自由に変換できる。 18〜19世紀のアメリカや、ヨーロッパで彗星の発見が盛んだったころのツァイスの製品だと思うが、一体こんなものを誰がどのような動機で東京天文台に持ち込んだものであろうか?これは永遠の謎である。
もともと外国でも国内でも彗星の眼視捜索は殆んどアマチュアの行う仕事であった。まして格の高い国立の天文台のすることではない。しかしメインの大屈折鏡の大ドームの外に、このコメットシーカーも立派なドームが設けられていた。
このことについて、同じ東京大学出身で京都大学の花山天文台にいた百済教猷教授は大いなる疑問を抱き、「これは恐らくメインの屈折赤道儀を購入した際に、一緒におまけとして買わされたものであろう」と言う面白い発言を東亜天文学会での講演会の際にした。
しかし、それには発見者がいた。東京天文台の下保茂技官である。即ち1936年7月の Kaho -Kozik-Lis彗星( 1936 O1)である。1962年5月、東京ひばりが丘の下保氏のお宅を訪ね、発見の様子をつぶさに聞くことが出来た。20cmは3枚玉(トリプレット)で出来ていたが、1966年頃私が堂平天文台で実際に覗いたところ、それほど立派なピントとは思わなかった。
1950年頃2代目のコメットシーカーとして、私は口径12cmの屈折鏡F5を暫く使用して、数々の彗星を独立に観測して貢献した時代があった。この時使用した12cmの屈折鏡の方が二枚玉であるが、もっとピントが良いように思えた。これと同じものを倉敷の本田氏や、花山の三谷氏も捜索に使用した。実物が今、香川県の「望遠鏡博物館」に飾られている。一方、私の「関望遠鏡」は今、福島県の大野氏の天文台のメインの望遠鏡のファインダーとして取り付けられ活躍している。望遠鏡には長い重い過去がある。手柄がある。そのうちきっと新彗星を呼び込むことであろう。
旧東京天文台のツァイス製20cmコメットシーカー


にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。