去る2月4日に芸西天文台で、恒例の観測会が開かれました。昔の春分の日ですが、私にとって2月4日は忘れられない記念の日でもありました。
そうです、1962年と1967年の2月4日に、それぞれ新彗星を発見した日で、特に1962年の「関-ラインズ彗星」は、彗星が太陽に0.03天文単位まで大接近するというショーを演じ、大騒ぎした日でもありました。
そうしたこともあって、教室では、先ず彗星発見の奥義や秘話についてお話しました。その時、私の手には、1948年の日食彗星に挑戦した時の、手作りの単眼鏡が握られていました。
参加者は、明徳義塾高校の学生(中国人留学生が多かった)と一般で、中には50年ほど昔に、私の家の近く(かみまち)に住み、天体観測に熱中していたという、初老の男性もいました。また、作年の7月に高知県の主催で天文講演会を行った時、キューバの「ホセMカレヨ」氏が即興的に作曲したという「イケヤ・セキ彗星の曲」を、世界で最初にピアノで演奏して下さった、音楽大学出身の佐々木衣識女史の姿もあり、うれしく思うと共に、演奏の苦労談なんかを伺いました。楽譜はオーケストラ用のスコアですが、弾いていて、オリエンタル風な不思議な雰囲気を感じたそうです。彗星発見から、実に57年ぶりに幻の楽譜は初めて音となって響き渡ったのです。白昼太陽コロナの中に突入して行く彗星の姿が、神々しいまでに浮かんできました。正に歴史的な演奏でした。
また観客の中には、明治時代に祖父が明るい肉眼彗星を発見し、午前3時に東京天文台に電報を打った、というご婦人の珍しいお話もありました。確か香美市の森本紅玉さんといった?と思いますが、彗星はその後どうなったのか? 講演会の時には必ず、この様な珍しい出来事が飛び出して、興趣を誘われるものですが、それはこうした会でしか起こらない、貴重な体験だと思っています。
1968年に発見された「多胡・本田・山本彗星」の山本博文さんも、佐々木さんや宮地竹史さん(元、石垣島天文台長)と同郷の香美市の出身で、彼の夫人は、宮地氏の高校時代の同級生だったそうです。
松本清張の小説「点と線」ではありませんが、世間は広いようで狭く、人間は、眼で見えない線(縁)で結ばれているものです。
(写真は会場で”イケヤ・セキ彗星の曲”を演奏する佐々木さん。高知新聞より)


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そうです、1962年と1967年の2月4日に、それぞれ新彗星を発見した日で、特に1962年の「関-ラインズ彗星」は、彗星が太陽に0.03天文単位まで大接近するというショーを演じ、大騒ぎした日でもありました。
そうしたこともあって、教室では、先ず彗星発見の奥義や秘話についてお話しました。その時、私の手には、1948年の日食彗星に挑戦した時の、手作りの単眼鏡が握られていました。
参加者は、明徳義塾高校の学生(中国人留学生が多かった)と一般で、中には50年ほど昔に、私の家の近く(かみまち)に住み、天体観測に熱中していたという、初老の男性もいました。また、作年の7月に高知県の主催で天文講演会を行った時、キューバの「ホセMカレヨ」氏が即興的に作曲したという「イケヤ・セキ彗星の曲」を、世界で最初にピアノで演奏して下さった、音楽大学出身の佐々木衣識女史の姿もあり、うれしく思うと共に、演奏の苦労談なんかを伺いました。楽譜はオーケストラ用のスコアですが、弾いていて、オリエンタル風な不思議な雰囲気を感じたそうです。彗星発見から、実に57年ぶりに幻の楽譜は初めて音となって響き渡ったのです。白昼太陽コロナの中に突入して行く彗星の姿が、神々しいまでに浮かんできました。正に歴史的な演奏でした。
また観客の中には、明治時代に祖父が明るい肉眼彗星を発見し、午前3時に東京天文台に電報を打った、というご婦人の珍しいお話もありました。確か香美市の森本紅玉さんといった?と思いますが、彗星はその後どうなったのか? 講演会の時には必ず、この様な珍しい出来事が飛び出して、興趣を誘われるものですが、それはこうした会でしか起こらない、貴重な体験だと思っています。
1968年に発見された「多胡・本田・山本彗星」の山本博文さんも、佐々木さんや宮地竹史さん(元、石垣島天文台長)と同郷の香美市の出身で、彼の夫人は、宮地氏の高校時代の同級生だったそうです。
松本清張の小説「点と線」ではありませんが、世間は広いようで狭く、人間は、眼で見えない線(縁)で結ばれているものです。
(写真は会場で”イケヤ・セキ彗星の曲”を演奏する佐々木さん。高知新聞より)


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