奇想天外な発明とされる”風船爆弾”は、関東地方から東北にかけての海岸の基地から発射された。一説によると終戦まぎわの僅かな期間に、数百発が飛ばされたというが、実際にアメリカ大陸に到達したものは少なかった。当時の新聞には、あちこちの山岳地帯で、原因不明の山火事が発生したことが、報じられたという。日本でもこのことが大きく報道され、不利な戦局に、新しい息吹きを与えるものとしての期待が大きかった。

 日本の風船爆弾は、横須賀にあった、日本陸軍の技術研究所で開発が進められたという。そして、都会の映画館の中の椅子を取り除いて巨大な風船が組み立てられた。薄くて、強靭な和紙を特殊なのりで2枚貼り合わせて風船をつくりあげた。莫大な和紙が必要であった。全国の紙工場が協力したが、特に土佐和紙は優れていたと言う。おかげで、「関製紙工場」も軍需工場に指定されていた。

 製紙業は私の祖父の時代に高知県の土佐市ではじまった。その後ある程度作業が安定すると、工場を高知市に移して終戦後まで続けた。軌道に乗るまでには困難の連続であったが、祖父の長男(私の母の兄)に”琴堂”という、伯父がいて、あらゆる難関に立ち向かい工場を一定の軌道に乗せた。”琴堂”は芸術の上の雅号で、本名は「関光恵」といった。書家として、全国にその名を馳せたが、36歳の若さで病没した。
 琴堂は、私にとっても幻の書家であった。私が幼少のころ他界したので、全く記憶にない。家が戦災で焼失した関係で、伯父の書いた作品は一枚も残っていなかった。それが没後90年近く経って、妙なところから出てきた。

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