第2次大戦中の末期に、日本が発明した風船爆弾には、多くの天文家も関与していたらしいことが判明した。ある天文雑誌に連載していた頃、それを読んでいたある天文同好会の会長が戦時中に横須賀の陸軍技術研究所に配属されていた。終戦の、不要になった和紙をリヤカーいっぱいもらったが、それに「関製紙工場」のサインがあったという。
 また、旧東京天文台で、彗星等の観測に活躍した富田弘一郎氏も、戦時中は学徒動員として風船爆弾用のガスボンベを、電車で東北の発射基地まで運んだという。やはり、前にも言ったように人間という物は”点と線”で結ばれているものだと思った。
 前に一度語ったが、工場が連合国のスパイに狙われたことがあった。恐ろしいことに、工場内に自限爆破装置が仕掛けられていた。幸い、早く発見してことなきをえたが、その時工場から消えた「タナベ」という従業員がいた。事件のあった翌日に突然消えたが、てっきり敵側のスパイと思っていたこの男と、それから20年後に邂逅した。松山市のNHKの放送局でギター演奏が終わって、外に出た時、急に声をかけられた。「もしや関のおぼっちゃんではありませんか?」と。こんな呼び方をするのは、関製紙工場時代の従業員にきまっていた。「こんなところでお目にかかろうとは夢にもおもっていませんでした」と手渡された名詞には「田辺光男」とかいてあってびっくりした。あのスパイと間違われた目の「ギョロッ」と光る男である。なんでも鳥取県から、観光で道後温泉にきていたが、「懐かしい人と御目にかかれて、よいお土産ができました」と喜んで帰って行った。どうやらアメリカのスパイだと思っていたのは、とんでもない間違いの様であった。

 数日後に便りがきた。「あなたさまのギター演奏をテレビで拝見しました」と書いてあった。
松山の局から、「夜のミュージック」と言う時間にラモウ作曲の「2つのミヌエット」という曲を全中で演奏した。1962年の「関-ラインズ彗星」を発見した直後のことで、まさか”天文屋”のSeKiと気がついた人は少なかったと思う。あの頃は天文とギターとの2刀流で苦闘していた。

(写真は風船用の土佐和紙と組み立てられた直径6mの紙風船)

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