ここ高知市の鏡川のほとりの土手に、アメリカの飛行士「フランク チャンピオン」の記念碑が立っている。日本では、まだ飛行機の珍しい大正時代(1917年10月30日)に高知市の上空にやってきて、数々の曲芸飛行を観せた。高知市朝倉の陸軍の広い練兵場の上空で、当日は10万人の人だかりだったという。観衆の多くは飛行機なるものは初めてで、大いなる興味と期待を寄せていた。見物していた私の父の話によると、この日の午後、2回目の曲芸飛行に飛び立った飛行機は木製で、複翼の飛行機は、高空(1200m)で宙返りを二回繰り返し、続いて低空飛行に差し掛かったとき、左側の翼が折れ、風にきりきりと舞いながらしばらく空を漂った。しかし片翼を失った飛行機は、まっしぐらに落下したという。チャンピオンは、下界に集まった観衆に向かって、危ないから避難するように、盛んに片手を振りながら落下したという。
下界では大騒ぎになった。救急車のない時代で、モッコにくるんだ遺体を人夫二人が前うしろ棒で担いで2kmほど離れた市内の病院に運んだ。途中私の家の前でいったん休んだ時、航空ショーを見ていた母が、折から庭に咲いていた菊の花を遺体に載せて祈ったという。むきだしになった腕には一面に地上の跡が付いていたという。町内から出てきた多くの人に見送られながら病院に向かった。
こうしたちょっとした善意は、彼の家族の元にはすぐには伝わらなかったが、それから約半世紀の歳月が流れて、チャンスがやってきた。チャンピオンの娘に当たるアメリカの老婦人から「チャンピオンの最後の様子を知りたい」という問い合わせであった。高知新聞社の橋井昭六記者が、私の話もアメリカの遺族のもとに報告したのであった。
高知市柳原に立つ彼の慰霊碑の前には美しい花が植えられ絶えることが無い。異国の土に眠るチャンピオンであるが、多くの人に祝福され、最後の飛行の場所に眠れて幸せだと思った。33歳の若さであった。
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下界では大騒ぎになった。救急車のない時代で、モッコにくるんだ遺体を人夫二人が前うしろ棒で担いで2kmほど離れた市内の病院に運んだ。途中私の家の前でいったん休んだ時、航空ショーを見ていた母が、折から庭に咲いていた菊の花を遺体に載せて祈ったという。むきだしになった腕には一面に地上の跡が付いていたという。町内から出てきた多くの人に見送られながら病院に向かった。
こうしたちょっとした善意は、彼の家族の元にはすぐには伝わらなかったが、それから約半世紀の歳月が流れて、チャンスがやってきた。チャンピオンの娘に当たるアメリカの老婦人から「チャンピオンの最後の様子を知りたい」という問い合わせであった。高知新聞社の橋井昭六記者が、私の話もアメリカの遺族のもとに報告したのであった。
高知市柳原に立つ彼の慰霊碑の前には美しい花が植えられ絶えることが無い。異国の土に眠るチャンピオンであるが、多くの人に祝福され、最後の飛行の場所に眠れて幸せだと思った。33歳の若さであった。
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