天文の教育施設としてのプラネタリウムは、いま全国各地に存在するが、終戦後の1950年頃には東洋に1基しかなかった。大阪四ツ橋の「電気科学館」のそれである。プラネタリウムは当時修学旅行生なんかに大の人気で、私が高校生のころから星の同好者として親しんでいた岡田君が、東京に就職するとき、大阪まで見送り共にプラネタリウムを見学した。
 1950年に高知市で産業博覧会が開催されたとき、さきに述べたSさんがそれに呼応して、東洋に2台目のプラネタリウムをオールハンドメイドで作ろう、と言いだした。Sさんは当時東亜天文学会の高知支部長に籍を置いていた。
 
 Sさんの家は鉄工所であることが幸いした。まずは直径1米ほどの地球儀の様な球を鋳物を吹かして製作した。これを赤道から北と南に分けて全天の星座を描いた。星図は当時日本で唯一の「村上星図」が役にたった。肉眼で見える5等星くらいまでの星を大小の、ドリルの針を使い分けて開けて行った。ピンホールはすべて私が担当したが、慣れない工事のために小さな針が折れて多大の費用を損失した。しかし自分のこしらえた星座が、やがて円天井に投影されるかと思うと張り合いがあった。こうして苦労惨憺して、大の借金まで抱えて完成した天文館であったが、その目的が当時の市民に理解されず、わずか1年ほど投影しただけで無念の閉鎖することとなった。

 それから10年の歳月が流れた。事業に失敗し夜逃げ同然の身で、故郷の鹿児島県に逃れていたはずのS氏が帰ってきた。彼は自作した潜水艇「荒天号」に乗って浦戸湾に堂々の入港を果たしたのであった。岸壁は沢山の人だかり。当時の横山高知市長まで出迎えて歓迎した。元海軍の水兵だったSさんは、観客に向かって挙手の敬礼をした。人生最高の日、、、、、。
 猟奇の果てに、空と海に果てしない夢を追つづけた男の生涯であった。

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