高知県への60cm反射望遠鏡の寄付が決まった時、五藤光学は私を東京の本社に招いて希望を聞き、設計に着手しました。設計の技師は望月征爾氏でした。会長の五藤氏も参加して、「会長出身の高知県で使ってもらうために」という事で、会社を挙げて最高の設計製作を行う事で一致しました。
まず60cmのガラス材は芸西での気温の変化を考慮して、膨張係数ゼロに近いという高価なセラミック材が使用されました。そして完璧な放物面を達成するために工場の技術者のほかに、光学の権威である東北大学の吉田正太郎教授を招きました。研磨がほぼ完成した時点で、当時、日本最高の研磨の技術を持っていると言われた滋賀県の木辺成麿氏を迎えフーコーテストを行い、私も立会いました。
研磨は主に工場の三ケ山吉弘氏が行いましたが、木辺氏は最高の出来であると褒めました。私も収差表を見ましたが、人間の手でこれ以上の理想鏡は出来ないと思うほどの傑作でした。大量生産は、大体、機械研磨の可能な球面で止めます。後はF値を長く取って収差を小さく見せる、という”逃げ”を打つのです。芸西の鏡は厳しいF3.5です。彗星の検出や観測には明るい玉が必要なのです。
こうして立派に完成した鏡は、力学的にたわみのない頑丈な設計の鏡筒に収められたのです。マウントは世界中の望遠鏡を参考としました。駆動装置も良く、パソコンからの指令も敏感に反応しました。ガイド鏡にトリプレットの20cm屈折を載せたのも立派でした。時価、6,000万という事でしたが実際にはそれ以上。会長の買い上げという事で、特別に安く設定されたのです。
五藤さんは日本光学で育った人ですが、そのいい加減なものは受け入れない精神を立派に受け継いでいました。日本光学→五藤光学研究所の流れに沿う望遠鏡が1979年に芸西の山の中に座り、翌年から学術と教育の二刀流で活動が開始されたのです。
そう!それにプラスする使い手が大事であることを私は重々承知していたのです。「この望遠鏡と生死をと共するんだ!」私は悲壮な決意を持って観測に挑んだのです。
(写真は上が完成した60cm鏡を見る吉田正太郎氏、五藤斉三氏、関勉。下が芸西天文台での設計者、望月氏と筆者)
にほんブログ村
まず60cmのガラス材は芸西での気温の変化を考慮して、膨張係数ゼロに近いという高価なセラミック材が使用されました。そして完璧な放物面を達成するために工場の技術者のほかに、光学の権威である東北大学の吉田正太郎教授を招きました。研磨がほぼ完成した時点で、当時、日本最高の研磨の技術を持っていると言われた滋賀県の木辺成麿氏を迎えフーコーテストを行い、私も立会いました。
研磨は主に工場の三ケ山吉弘氏が行いましたが、木辺氏は最高の出来であると褒めました。私も収差表を見ましたが、人間の手でこれ以上の理想鏡は出来ないと思うほどの傑作でした。大量生産は、大体、機械研磨の可能な球面で止めます。後はF値を長く取って収差を小さく見せる、という”逃げ”を打つのです。芸西の鏡は厳しいF3.5です。彗星の検出や観測には明るい玉が必要なのです。
こうして立派に完成した鏡は、力学的にたわみのない頑丈な設計の鏡筒に収められたのです。マウントは世界中の望遠鏡を参考としました。駆動装置も良く、パソコンからの指令も敏感に反応しました。ガイド鏡にトリプレットの20cm屈折を載せたのも立派でした。時価、6,000万という事でしたが実際にはそれ以上。会長の買い上げという事で、特別に安く設定されたのです。
五藤さんは日本光学で育った人ですが、そのいい加減なものは受け入れない精神を立派に受け継いでいました。日本光学→五藤光学研究所の流れに沿う望遠鏡が1979年に芸西の山の中に座り、翌年から学術と教育の二刀流で活動が開始されたのです。
そう!それにプラスする使い手が大事であることを私は重々承知していたのです。「この望遠鏡と生死をと共するんだ!」私は悲壮な決意を持って観測に挑んだのです。
(写真は上が完成した60cm鏡を見る吉田正太郎氏、五藤斉三氏、関勉。下が芸西天文台での設計者、望月氏と筆者)
にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。