添付写真は、高知市の名勝「桂浜」での記念写真である。後ろの高台から、竜馬が見ている。マースデン博士は坂本竜馬を、どの程度理解していたかどうかは分からない。芸西で発見した「Ryouma」と言う小惑星の命名を最終的に認めてくれたのは博士であった。
マースデン氏は、このころスミソニアンの中央局の局長の座についていた。「小惑星命名センター」にも幅が利いたのである。
長谷川一郎氏は、日本での軌道研究の第1人者であった。私も彼の元で、ずいぶん軌道計算に従事した。中でも小惑星の円軌道計算では200個を超した。また遠い過去に、行方不明になっていた、ある周期彗星の軌道計算を行って、マースデン博士が、そのエレメントを基に永い摂動計算をして再発見されたこともあった。そのころBAA(大英天文協会)では、優れた計算者がいて、世界的に軌道計算が盛んであった。マースデン博士も、元はと言えば大英天文協会の出身であった。
当時はまだ軌道計算のための大型コンピューターのプログラムが開発されたばかりで、われわれアマチュアは依然として対数計算か、手回しの真数計算機に頼っていた。天体までの距離を求めるための難解なガウスの4次方程式の解法も、自分で考えて解いた。現実には四つの解が存在するが、天体として適切な解は一つしかない。選んだ解が、正しかったかどうかは、その後の天体の位置が実際に計算した予報と一致しているかどうかを確かめていくかしかない。まったく厄介なものである。対数計算の途中で出てくるチェックもある場所では自分で考えて確認した。長谷川氏は計算する前に、理論を解せよといわれた。難解な微分方程式、積分方程式までである。
マースデン博士は、1987年に芸西天文台を視察した。そして私の個人の家にも来て、地元のアマチュア天文家たちとも交流した。日本では考えられない光景であるが、これはアメリカ人の寛大な国民性であろう。これを機に、日本の彗星天文界は世界に飛躍した。


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マースデン氏は、このころスミソニアンの中央局の局長の座についていた。「小惑星命名センター」にも幅が利いたのである。
長谷川一郎氏は、日本での軌道研究の第1人者であった。私も彼の元で、ずいぶん軌道計算に従事した。中でも小惑星の円軌道計算では200個を超した。また遠い過去に、行方不明になっていた、ある周期彗星の軌道計算を行って、マースデン博士が、そのエレメントを基に永い摂動計算をして再発見されたこともあった。そのころBAA(大英天文協会)では、優れた計算者がいて、世界的に軌道計算が盛んであった。マースデン博士も、元はと言えば大英天文協会の出身であった。
当時はまだ軌道計算のための大型コンピューターのプログラムが開発されたばかりで、われわれアマチュアは依然として対数計算か、手回しの真数計算機に頼っていた。天体までの距離を求めるための難解なガウスの4次方程式の解法も、自分で考えて解いた。現実には四つの解が存在するが、天体として適切な解は一つしかない。選んだ解が、正しかったかどうかは、その後の天体の位置が実際に計算した予報と一致しているかどうかを確かめていくかしかない。まったく厄介なものである。対数計算の途中で出てくるチェックもある場所では自分で考えて確認した。長谷川氏は計算する前に、理論を解せよといわれた。難解な微分方程式、積分方程式までである。
マースデン博士は、1987年に芸西天文台を視察した。そして私の個人の家にも来て、地元のアマチュア天文家たちとも交流した。日本では考えられない光景であるが、これはアメリカ人の寛大な国民性であろう。これを機に、日本の彗星天文界は世界に飛躍した。


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