鷲尾山は高知市の南に聳える美しい山である。小学生のころには良く遠足で登った。標高はわずか300mであるが、頂上からは、南に太平洋のパノラマが展開し、遥かに東は室戸岬、西には足摺岬の両岬が彷彿として見える。金波、銀波の逆光に輝く太平洋には、確かに地球が球形であることを実感させられる。水平線の彼方に点として見える外国航路の汽船は動く気配が無い。それだけ遠いのだ。これほど人の心を大きくしてくれる山はほかにない。
鷲尾山から東には低い連山が累々として連なっているが、私が中学生のころは戦時中で学徒動員として、それらの山で働いた。目的は南の海岸に敵前上陸してくる連合軍を迎え撃つ為の横穴掘りであった。極めて過酷な労働であったが、学校の授業はすべて放棄して毎日現場に通った。大人でも耐えがたい重労働であった。
ある晴れた日の午後であった。例によって山上の作業現場から西を見ていると、突然赤い火の玉が地上に落下した。戦闘機らしい爆音が響いたかと思うと続いてもう一つ、ゆっくりと落下した。これは本土空爆を行ったB-29が南に遁走中に、源田実隊長の率いる松山航空隊に属する紫電改戦闘機の攻撃を受け、鷲尾山の山中に二つに分裂して墜落した。乗り組み兵は全員が落下傘で降下した。しかし駆けつけてきた日本の憲兵に全員捉えられて、トラックで運ばれていった。
その後これらの6名の捕虜は広島市の捕虜収容所に送られたが、間もなく投下された悪魔の原子爆弾で全員死亡したという。見知らぬ異国の地で捕虜になり、そして命を落とす。敵兵とはいえ、なんと不幸な人生であろうと、幼な心に憐憫の情が絶えなかった。
これらのB−29の搭乗員の最期について、戦後アメリカの家族から高知市に問い合わせがあったらしいが、結局知った人はいなかった。その少し前の7月4日の高知市大空襲で、戦闘機によって撃墜されたB-29の乗組員6名の家族からも高知市に問い合わせがあったが、その墜落の状況を目撃した人は、私一人であったかもしれない。しかし私の貴重なそれらの目撃談は、高知新聞社の橋井昭六記者が直接アメリカの家族の元に手紙で伝達してくれたのは幸いであった。
自宅の屋上から見た夏の日の鷲尾山


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鷲尾山から東には低い連山が累々として連なっているが、私が中学生のころは戦時中で学徒動員として、それらの山で働いた。目的は南の海岸に敵前上陸してくる連合軍を迎え撃つ為の横穴掘りであった。極めて過酷な労働であったが、学校の授業はすべて放棄して毎日現場に通った。大人でも耐えがたい重労働であった。
ある晴れた日の午後であった。例によって山上の作業現場から西を見ていると、突然赤い火の玉が地上に落下した。戦闘機らしい爆音が響いたかと思うと続いてもう一つ、ゆっくりと落下した。これは本土空爆を行ったB-29が南に遁走中に、源田実隊長の率いる松山航空隊に属する紫電改戦闘機の攻撃を受け、鷲尾山の山中に二つに分裂して墜落した。乗り組み兵は全員が落下傘で降下した。しかし駆けつけてきた日本の憲兵に全員捉えられて、トラックで運ばれていった。
その後これらの6名の捕虜は広島市の捕虜収容所に送られたが、間もなく投下された悪魔の原子爆弾で全員死亡したという。見知らぬ異国の地で捕虜になり、そして命を落とす。敵兵とはいえ、なんと不幸な人生であろうと、幼な心に憐憫の情が絶えなかった。
これらのB−29の搭乗員の最期について、戦後アメリカの家族から高知市に問い合わせがあったらしいが、結局知った人はいなかった。その少し前の7月4日の高知市大空襲で、戦闘機によって撃墜されたB-29の乗組員6名の家族からも高知市に問い合わせがあったが、その墜落の状況を目撃した人は、私一人であったかもしれない。しかし私の貴重なそれらの目撃談は、高知新聞社の橋井昭六記者が直接アメリカの家族の元に手紙で伝達してくれたのは幸いであった。
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