私が彗星の捜索に興味を持って始めた頃、本田さんの一連の彗星発見の後に、突然「ムルコス彗星」と言う聞きなれない星が飛び出してきて天文界を驚かしました。Mrkosというローマ字でしたが、「ムルコス」とか「マルコス」とか、あるいは「ムーコス」とか、日本では呼び方がまちまちでした。続いてムルコス氏と共に捜索者の「パジュサコヴァ」女史の台頭によって、その読み方が問題になり、1950年頃OAAの山本一清博士が、日本に住む、知り合いのチェコ.スロバキアの学者に、彼らの読み方について問いあわせたことがありました。そのことが当時の「田上天文速報」に出ています。

 スカルナテプレソ天文台は、そのころ、いわゆる「鉄のカーテン」の中にあって、なかなか
詳しい情報が入ってこなかったのですが、それでも本田さん宛に、個人的に来たムルコス氏からの手紙で大体の事が見えてきました。
 それには「1948年に発見した”本田−ムルコス−パ、彗星”の回帰を西の夕空で探している」と言う事が書いてありました。このころの予報は正式にはアメリカのカニンガム博士が当時のUAICに発表したもので、近日点の通過は1953年の秋になっていました。結果的には花山天文台の三谷哲康氏が1954年の春、夕空に10等星で発見しました。軌道計算の方でも、彼らの方が一歩進んでいるように思いました。

 本田さん宛に来た手紙で、彼らの天文台は標高1400mのタトラ山中にあって観測しているが、
ムルコス氏は更に高い海抜2000m級の気象観測所に登って捜索をやっていることが伺えました。発見者は珍しく全員学者で、まず台長のベクバル博士やクレサク博士、それにムルコス氏やボサロバ女史等の名も挙がっていました。冬は氷点下30度の激寒の中で、電熱服を使ってやっていることも書いてあり、厳しい環境の中での奮闘に、全く頭が下がる思いでした。
 私が20年ほど昔に、岩手県の遊学館に講演に行ったとき、旧”水沢緯度観測所”の中で「ムルコス氏の死亡報告を受け取った」と言う人がいました。また山崎正光氏が、太平洋天文学会から授与された彗星発見のドノホウメダルが、立派なケースに入って飾られていました。更に「Z項発見」で、日本最初の文化勲章を受賞した木村栄博士愛用の五つ玉のソロバンを握れたことも、またとない体験でした。゛Z項”と言うのはXとYから成る一次観測式に、新たにZの補正項を加えることによって、観測と計算が完全に一致しだしたというもので、その理由はわかっていません。これの研究に一生をかけたという、学者もいたそうです(山本進氏談)。
 水沢緯度観測所では、沢山の観測結果を一次連立式に代入し、最小自乗法で解くための、木村博士のはじくソロバンの音が、終日室内にこだましていたそうです。私には、今も天国のどこかで木村博士の弾くソロバンの音が響いているような気がしてなりません。
 嗚呼、何事にも理想に向かって、熱中するという事は素晴らしいですね。

写真:田上天文台での山本一清博士と46cm反射望遠鏡

 1954年8月31日 「関勉:撮影」

名称未設定


にほんブログ村 科学ブログ 天文学・天体観測・宇宙科学へ
にほんブログ村