世界の大型望遠鏡の活躍によって、多くの太陽系の天体が、まだ微光星のころに遠くで発見される。そして地球に接近して眼視で見え出すころには、すでに発見が確定しており手遅れである。このような状態が続いており、従来の眼視的ハンターは、なかば諦めていると言う状態が現実だと思う。しかし眼視発見のチャンスは、まだ僅かながらも残されている、と言うのが私の考えである。
その典型的な例が、私が最初に遭遇したC/1961-T2であった。この彗星は長い事太陽のあちら側にあって、地上から見えなかった。そして近日点を通過するころ、大型望遠鏡の向かない太陽からの角離隔が僅か30度ほどの、薄明の中で発見された。ちょうど近日点通過中である。そして、地球に大接近して南半球の空で3等級の明るさで輝いた。
この彗星は周期が700〜800年の一つのグループを作っており、またいつの日にか同群の物が接近してくる可能性がある。しかし「イケヤ・セキ彗星」に代表される”クロイツ族”ほど多く、有名な存在ではないのである。
彗星の発見法について、ある有名な外国の雑誌で、一人のハンターが書いていた。「まず、太陽に近い一定の天空に望遠鏡を静止させる。そして視野の中をぐるっと見回す。獲物が見つからなければ、視野をその広さだけ移動させて、また見まわす。」と言うような文である。その方法が、多くの人の賛同を得たように書いてあったが、これは、明らかな間違った方法である。このようなやり方では全天を捜索するのに、恐ろしいほどの時間を要する。第一、微光の彗星状天体という物は、視野がある程度の速さで動いていた方が、静止しているよりもはるかに気が付きやすいのである。視線は視野の中央において動かさず、しかも視野全体を注視する。そして、流れていく雲霧状の天体に注意するのである。これは、熟練すれば、たやすい方法である。中には判然とせず、何かがあった、と思って視野を逆流させることがある。中央に入れてみると、確かに彗星様に輝く微光の天体があって、思わず息をのむのである。そして次の瞬間に「発見」の凱歌が挙がる。大先輩の本田実氏もかなりの速さで、視野を動かしていた。
彗星の発見とは、こんなデリケートなものである。そして次の瞬間には発見電報が、世界を駆け巡ることになる。私が良く言う「無欲の発見」と言う言葉が、一番ピッタリするのである。発見を意識し過ぎた、イライラした心では、本物の彗星は訪れてくれないものである。
「写真」冬の晴天期も、そろそろ終わり、雲が多くなってきた。
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その典型的な例が、私が最初に遭遇したC/1961-T2であった。この彗星は長い事太陽のあちら側にあって、地上から見えなかった。そして近日点を通過するころ、大型望遠鏡の向かない太陽からの角離隔が僅か30度ほどの、薄明の中で発見された。ちょうど近日点通過中である。そして、地球に大接近して南半球の空で3等級の明るさで輝いた。
この彗星は周期が700〜800年の一つのグループを作っており、またいつの日にか同群の物が接近してくる可能性がある。しかし「イケヤ・セキ彗星」に代表される”クロイツ族”ほど多く、有名な存在ではないのである。
彗星の発見法について、ある有名な外国の雑誌で、一人のハンターが書いていた。「まず、太陽に近い一定の天空に望遠鏡を静止させる。そして視野の中をぐるっと見回す。獲物が見つからなければ、視野をその広さだけ移動させて、また見まわす。」と言うような文である。その方法が、多くの人の賛同を得たように書いてあったが、これは、明らかな間違った方法である。このようなやり方では全天を捜索するのに、恐ろしいほどの時間を要する。第一、微光の彗星状天体という物は、視野がある程度の速さで動いていた方が、静止しているよりもはるかに気が付きやすいのである。視線は視野の中央において動かさず、しかも視野全体を注視する。そして、流れていく雲霧状の天体に注意するのである。これは、熟練すれば、たやすい方法である。中には判然とせず、何かがあった、と思って視野を逆流させることがある。中央に入れてみると、確かに彗星様に輝く微光の天体があって、思わず息をのむのである。そして次の瞬間に「発見」の凱歌が挙がる。大先輩の本田実氏もかなりの速さで、視野を動かしていた。
彗星の発見とは、こんなデリケートなものである。そして次の瞬間には発見電報が、世界を駆け巡ることになる。私が良く言う「無欲の発見」と言う言葉が、一番ピッタリするのである。発見を意識し過ぎた、イライラした心では、本物の彗星は訪れてくれないものである。
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