高知市の関観測所が芸西村に移転した時「Kochi Observatory Geisei Station」の名称を国際的に使っていました。その時の主力望遠鏡が、口径40cmの反射赤道儀でした。運転は非常に悪いガイドでしたが、腕でカバーしました。4分毎に起こる大きなブレを予期してのガイド観測です。しかし60cmが完成するまでの間活躍し「本田・ムルコス・パ彗星」ほか4個の周期彗星の検出に成功しました。
鏡は、愛知県の小島信久氏の傑作で、鏡筒はオール手製でした。ガラス材が青板だったために、温度の変化による星像のデリケートな崩れが見られましたが、一旦ピントが合うと、恐ろしいばかりの尖鋭な像を結びました。研磨は、先に本で紹介した戦前の中村氏や、山崎氏の先駆者が居ましたが、戦後には星野氏、池谷氏。それに田坂氏や小島氏等が競い合っていました。
鏡面は回転放物面に磨く必要があって、球面の様に機械研磨が難しく、良いものは、すべて経験による手磨きでした。実は私も10cm鏡を磨いた経験があります。写真の観測台の主鏡が40cmです。その横に見えている白い小さなコメットシーカーが10cmの池谷鏡で、マウントは山崎正光が考案したスタイルをそっくり真似たものです。
(下の写真が40cmの小島鏡で撮影した有名な‟薔薇星雲”です。1980年2月に撮ったものでコダック社の103a-eガラス乾板を使用し20分間の露出。平面性が良いので鏡の尖鋭さを遺憾なく発揮しました。)
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鏡は、愛知県の小島信久氏の傑作で、鏡筒はオール手製でした。ガラス材が青板だったために、温度の変化による星像のデリケートな崩れが見られましたが、一旦ピントが合うと、恐ろしいばかりの尖鋭な像を結びました。研磨は、先に本で紹介した戦前の中村氏や、山崎氏の先駆者が居ましたが、戦後には星野氏、池谷氏。それに田坂氏や小島氏等が競い合っていました。
鏡面は回転放物面に磨く必要があって、球面の様に機械研磨が難しく、良いものは、すべて経験による手磨きでした。実は私も10cm鏡を磨いた経験があります。写真の観測台の主鏡が40cmです。その横に見えている白い小さなコメットシーカーが10cmの池谷鏡で、マウントは山崎正光が考案したスタイルをそっくり真似たものです。
(下の写真が40cmの小島鏡で撮影した有名な‟薔薇星雲”です。1980年2月に撮ったものでコダック社の103a-eガラス乾板を使用し20分間の露出。平面性が良いので鏡の尖鋭さを遺憾なく発揮しました。)
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