1937年、高知市に近代的な天文台が完成した。二階建てのビルで、屋上に5メートルドームを備えていた。1937年と言えば日中戦争の勃発した年で、世界情勢が風雲急を告げる中、高知市の大原町では、土讃線の全通を記念して大規模な”南国大博覧会”が開催された。
当時国内では、天文台と言えば東京麻布の「東京天文台」と京都大学の「花山天文台」が双璧であった。民間の天文台では、倉敷市に財閥、原澄治氏の寄付によって「倉敷天文台」が設立され、山本一清氏が台長を務めていた。台員に本田実氏や岡林滋樹氏等がいた。「岡林・本田彗星」がここで発見されたのは1940年秋である。
民間第二号として高知市に設立された天文台は白亜の近代的なドームの中に5吋の屈折赤道儀を備えていた。これを建造したのは高知県出身で、東京の世田谷で光学会社を営んでいた五藤斎三氏であった。博覧会の期間中は主に昼間の太陽を観察し、博覧会の終了後は高知市に寄付されて、永久に活動を続ける計画であった。
南国大博覧会の開場した1937年4月26日には、太陽黒点の観測会が開催され天文台は黒山の人だかりとなった。それにこの年は11年に一度の太陽活動の最盛期に当たり、稀に見る盛大な黒点群が見えていたのである。実はこの群衆の中に小学一年生の私がいた。幼い目に一体どんな光景が映ったのか。この日の奇妙な黒点群を、東京天文台は麻布の施設で見事に記録していたのである。「ああ、この光景だった!」私の脳裡には実に80年昔の記憶が甦った。
(写真上は博覧会会場での天文館。下は当日、私の見た異様な黒点群。写真は高知未来科学館の前田雄亮氏提供)



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当時国内では、天文台と言えば東京麻布の「東京天文台」と京都大学の「花山天文台」が双璧であった。民間の天文台では、倉敷市に財閥、原澄治氏の寄付によって「倉敷天文台」が設立され、山本一清氏が台長を務めていた。台員に本田実氏や岡林滋樹氏等がいた。「岡林・本田彗星」がここで発見されたのは1940年秋である。
民間第二号として高知市に設立された天文台は白亜の近代的なドームの中に5吋の屈折赤道儀を備えていた。これを建造したのは高知県出身で、東京の世田谷で光学会社を営んでいた五藤斎三氏であった。博覧会の期間中は主に昼間の太陽を観察し、博覧会の終了後は高知市に寄付されて、永久に活動を続ける計画であった。
南国大博覧会の開場した1937年4月26日には、太陽黒点の観測会が開催され天文台は黒山の人だかりとなった。それにこの年は11年に一度の太陽活動の最盛期に当たり、稀に見る盛大な黒点群が見えていたのである。実はこの群衆の中に小学一年生の私がいた。幼い目に一体どんな光景が映ったのか。この日の奇妙な黒点群を、東京天文台は麻布の施設で見事に記録していたのである。「ああ、この光景だった!」私の脳裡には実に80年昔の記憶が甦った。
(写真上は博覧会会場での天文館。下は当日、私の見た異様な黒点群。写真は高知未来科学館の前田雄亮氏提供)



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