私が彗星の観測や発見を始めたころにはデンマークの首都コペンハーゲン天文台が天文の中央局であった。新しい発見や重大な観測があると、必ず日本のセンターたる東京天文台を通じて国際電報を打った。一方彗星の重要な観測や計算はアメリカのハーバードやスミソニアンに集まっていた。

 1956年、クロムメリン彗星を発見した時には、従来の位置予報から大きくはなれていたので、新彗星(Comet Seki)としてコペンハーゲンに発信した。実はその前年の10月に、私は”かに座”に彗星らしい光芒を捉えていた。しかし彗星として移動を確認出来ない間に、チエコ スロヴァキアのムルコスが発見して日本に電報が来た。

 それは1909年に現れて50年近く消息を絶っていた「ペライン彗星」であった。予報は14等。発見は9等星で、なんと100倍近くも明るくなって君臨したのである。新発見に等しい価値があるので、彗星の名称は「 Perrine-Mrkos」となった。ムルコスの発見2日前に見ていながら彗星と断定できなかったのは、当時の15cmの反射鏡が悪いピントだったからである。視野の中心以外を通過する天体はすべてが彗星の如くに見えた。

 しかしこの彗星を見失わないように、半世紀近くもその光跡を数式の上で追っかけてきた広瀬秀雄博士の努力は見事であった。しかしOAAでは、この彗星の計算に僅かに関与した長谷川一郎氏に感謝状を贈った。軌道の計算者が学会から表彰されることは極めて異例の事である。その努力が発見者ほど評価されにくいのである。

 しかしあの日から60年!「18Dペライン・ムルコス彗星」はまたも消息を絶って、いまでは、だだっ広い宇宙の中を、果てなく彷徨する運命となったのである。この彗星についてはOAAの佐藤裕久氏が、「彗星年表2017」に詳しい捜索予報を発表していた。

 この周期彗星が滅多に見つからないのは、平常の光度が非常に暗いからである。何らかの物理的な理由によって、爆発的に明るくなったときのみ発見されている、と考えるべきであろう。それは近日点の近くに帰ってきて、彗星が太陽の強い光熱を受けた時である。そして、もう一つ理由を挙げるならば、暗い周期彗星を片っ端から検出していた、アメリカのE.ローマー女史が、1970年頃、現役を引退したことも原因していると思う。

(雪に埋もれた北欧のコペンハーゲン天文台)img152


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