戦前の1940年から、戦後の長きに渉って、ほとんど独走の形で新彗星を発見して来られた広島県の本田実氏は、日本における彗星発見の神様として、学俗界から注目されました。実際、戦後の1947〜48年は、3個の彗星を次々と発見し、世間では「新彗星は本田さんでないと発見できない業だ」という事が定着していました。

 事実1948年から1961年までの13年間は、本田さん以外のアマチュアによる発見はありません。本田さんは天文学者として、後継者の育成に務め、第二、第三の本田さんが台頭することに期待し、その発見法を多くの書物に残しました。しかし、その一方で「本田さんしか出来ない芸当」という一種の神話が崩れることに、一抹の危惧を抱いていました。

 1961年に”関彗星”、1963年に浜松の池谷薫さんが発見に成功され、その後1965年に「イケヤ・セキ彗星」が出現してから、一挙に多くのアマチュアが、青春をかけて挑戦するようになりました。彗星や新星の発見が、天文学の発展に貢献できるアマチュアの最高の武器となったのです。

 高校3年生の時「本田・ムルコス・パ彗星」が発見されて、小さな手作りの望遠鏡で、初冬の寒空に立ち向かったことを懐かしく思い出されます。何も見えずに、夜風と、素足で立った屋根瓦の冷たさのみが今でも体に残っています。栄光を得るためには、誰しも大変な努力と苦痛が伴ったものです。

(写真は、東京上野公園の、西郷どんの銅像の前に立つ池谷薫氏と私)
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